今回の”What's New ”のコーナーでは、日本医師ジョガーズ連盟、通称日医ジョガーズのご紹介と、Jimさんに案内してもらった京都の話をお届けします。

日医ジョガーズ (JMJA)

特定非営利活動法人 日本医師ジョガーズ連盟が正式の名称だそうですが、ランニング仲間では日医ジョガーズで通っています。私も誘われて数年前に入会しました。要は走るのが好きな医者の集まりです。「遅いあなたが主役」というのがモットーだそうです。健康に走ることを目標とし、ランニング弱者をサポートすることが基本的な理念と聞いています。

日医ジョガーズが発足した1983年頃のわが国では、医師は人には運動を勧めながら自分自身が運動することは、多忙なせいもあり多くありませんでした。しかし欧米では、医師は自分の健康を自ら管理する責任があると、率先して運動する時代になっていました。日医ジョガーズは「まず隗より始めよ」と、医学会などの機会に医師が走る(または歩く)エベントを、その頃から開催しています。また各地で開かれるマラソン大会にも協賛し、多くの会員が参加しています。

協賛大会では胸と背中に赤十字を付けて走り、途中で病人は出たら対処する役目を担います。私も初めてメンバーとして参加したハーフマラソンで、前を走っていた若者が急に倒れました。かなり重症の熱中症で本部の医務室に搬送し、その後救急車で病院に搬送されました。協賛大会で赤十字を着けて走る時は、こちらも結構気を遣います。充分にトレーニングを積み、体調を万全にしておいて、万が一にも自分が倒れることの無いようにと気をつけて走ります。

連盟では毎年1度総会が開かれ、そこがメンバーの交流の場となります。勿論ジョッギングやウォーキングのプログラムもあります。しかし他には定期的な集会はなく、一般のランニングクラブとは少し異なります。日医ジョガーズニュースが定期的に送られてきますので、それを見て会員が活動します。ニュースには協賛大会や各種エベントへのお誘いが掲載され、参加できるメンバーはその担当者にファックスやメールで連絡をとるシステムです。協賛大会以外にも、会員自身が楽しむために参加する駅伝大会へのお誘いもあります。終わってからの懇親会のビールが楽しみという先生も、少なくないそうです。

写真は2007年第1回東京マラソンの朝に集合した時のものです。東京マラソンでは約100名のメンバーが、ランニングパトロールを致しました。赤十字の付いたビブスを着て、赤い風船を付けてコースを走りました。暖かい都庁内では風船が浮いていましたが、寒い外に出ると浮き上がらなくなりました。首にまとわり付く風船に苦労しながら走ったのも、今ではいい思い出です。

 理事長は大阪八尾市で開業されている萩原隆先生が長らく務められました。先生は有森裕子さんのNPO組織「ハート・オブ・ゴールド」の理事長もされています。20年前に心筋梗塞で倒れ、それから走り始められたそうです。著書の中で、「なぜ走るのか?」と問われたら、幸福になるために走るのだと答えたいと述べられています。


ジムさんに案内された京都

ある晴れた秋の日の朝、休日だったがいつもの時間に起き出した。今日はジムさんとの約束の日だ。来週に近づいた福知山マラソンのトレーニングのため、近くの鶴見緑地を20kmほど走ってから、いそいそと京都に向かう。

ジムさんのマンションは百万遍の近くで、京都では二番目に古いとのこと。でも当時はまだ規制がなくて周りの建物よりも背が高い。毎年816日には屋上から五山の送り火が全て望めるので、この夏にご招待して頂いた。シャンパングラスを片手に送り火見物としゃれ込んだ。でも京都もだんだん高いビルが増えてきて、ここから五山全てが見えるのはそう長くはなさそうだ。

マンションに着くと、ジムさんが自転車を2台用意して待っていてくれた。まず初めに腹ごしらえと、東山の蕎麦屋に向かう。私の蕎麦好きを覚えてくれていたようだが、自分も好きだと言う。戸隠の蕎麦を食べさせる店で、彼はうまそうに音をたてて上手に蕎麦を手繰る。蕎麦湯もおいしそうに飲んでいた。

この時期、まず定番の永観堂へ向かった。京都の町を自転車で走るのは初めてだ。ジムさんの後を追って行くが、信号無視が多いので結構大変だった。吉田山を廻って永観堂に着くと、まだ紅葉には少し早かった。それでも見事に紅葉している楓もあり、我々の眼を楽しませてくれた。そこから鹿ヶ谷通りに出る途中で、泉屋博古館を教えてもらった。恥ずかしながらそれまでこの美術館のことを知らなかった。住友コレクションで有名なこの美術館は、残念なことに工事中で休館していた。

哲学の道を抜けて銀閣寺に出る。さすがに人通りが多いが、細い裏道を選んで自転車で進む。京都で最初に住んだ家が銀閣寺のすぐ北にあったそうで、この辺りの道は非常に詳しい。参道横に高い高級そうなマンションがあった。風致地区にそぐわない建物と思ったら、これが京都で一番古いマンションだと説明された。当時はまだ規制が緩く、出来てしまってから周りから猛反対をうけたそうだ。

白川通りを上り詩仙堂の近くにある金福寺に着く。自転車だと意外と近い。与謝蕪村の墓があるこじんまりしたお寺で、入口脇の紅葉が見事だった。芭蕉を偲んで蕪村が建てたという芭蕉庵の横で、私が何気なくこう言った。

「蕪村は大阪の毛馬の出身ですね。」

「えっ、丹波の人ではなかったですか。」

「でも毛馬の閘門のそばに蕪村の句碑あり、それは故郷を詠ったものです。」

大阪城から桜ノ宮、毛馬から淀川というルートは普段の私のランニングコースで、この句碑は馴染み深い。

「春風や 堤長くして 家遠し」

蕪村の墓の説明文を読むと、やはり出身は毛馬村だった。でも彼が活躍したのは丹波にいた時期であることも知った。驚いたのはジムさんが漢文の石碑を読めることや、蕪村の弟子のことも良く知っていることだった。ジムさんは京都出町の居酒屋の常連さんである。鯖街道マラニックという小浜から出町までの80kmを走るレースの際に、私もこの居酒屋の存在を知った。店を開いて50年以上になるそうで、60を越えた今の亭主は二代目だ。ここを時々訪れるようになり、もう4年になる。先週もそこでおばんざいを肴に飲んでいた。昼間訪れた京都の寺院の話をしていたら、ジムさんは私のその方面の知識の乏しさを哀れに思ったのだろう。来週は空いているので京都を案内してあげるという話になった。

彼は美術商だと聞いてはいたが、あまり詳しい経歴は知らなかった。若い頃、台湾留学している時に日本に遊びに来て、日本美術にも興味を持ったそうだ。その後、奨学金をもらって京都大学の留学生として来日、以来38年間の日本住まいである。

金福寺の本堂には蕪村の墨絵のレプリカが掲げられている。彼によると本物はカネボウの会長が所蔵しているとのこと。またレプリカでない別の絵は、彼によると贋作とのこと。金福寺を後にして次は赤山禅院に向かう。自転車なのでいろいろな所にまで簡単に足を伸ばせる。赤山禅院はその参道が見事な紅葉であるが、その入口のすぐ横に大きな邸宅があった。ジムさんの友人の家だという。古い田舎の日本家屋三軒を取り壊して、それを基に一軒の家を作り上げたそうだ。その隣に150坪の普通の家があった。何でも空き家だそうで、売りに出ているらしい。友人は小さく土地を分けて売られると困るので、ジムさんに買わないかと持ちかけているとのこと。赤山禅院よりもどうもこちらに興味があって、わざわざ来たようだ。

陽が傾いてきたら少し肌寒くなってきた。白川通りからちょっと入った古い銭湯が、次の訪問先だった。残念ながら営業開始が5時からと遅く、別の銭湯に行くことになった。何でもそこはやくざがよく来るのだが、まだ時間が早いので大丈夫だろうとのこと。彼は慣れた様子で番台でタオルを借り、小さい石鹸を二つとシャンプーをひとつ買ってくれた。予想に反して中には全身に刺青を入れたお兄さんがいたが、空いていたので離れて入浴した。

マンションに一度戻り、改めてタクシーで夕食に出かけた。京都では多くない本格的な魚料理の店だった。亭主とは十数年以上の付き合いだという。本日のお奨めというほうぼうの刺身を彼は注文した。勿論飲み物は日本酒である。焼き物は若狭鰈の一夜干しだ。料理と酒を楽しみながら、ジムさんとの会話が弾んだ。学者のような静かな語り口で、日本だけでなく東洋美術の話をしてくれた。来週は北京のオークションに行くとも聞いた

京都の秋の夜は静かに深けていった。本当に楽しい一日を与えてくれたジムさんに感謝して、彼と別れた。