今回の”What's New ”のコーナーでは、小児癌チャリティー・ソウル市民マラソンと、スキーの1級検定の話をお届けします。

○ 行ってみたらソウル市民マラソンだった

2年前の日医ジョガーズの韓国遠征の時に、韓国医師ランニングクラブ(KDRC)主催の小児癌チャリティーマラソンに参加した。今年もKDRCから招待があり、このマラソンに参加すべく、5月の連休に家内と二人でソウルに出かけた。

前夜の歓迎会でKDRCのリー会長からナンバーカードを渡された。しかしハングル文字なので読むことができない。宴たけなわになるにつれて、私も石塚先生も明日はフルコースを走るのだから、もっと飲んで元気を出せと言われた。てっきり冗談だと思っていた。前に参加した小児癌チャリティーマラソンは、ハーフマラソンまでしかなく、後は10kmや5kmだった。タイムの計測も自分で時間を書き入れるような、どちらかというとファンランと言う感じだった。とてもフルマラソンが追加されたとは信じ難い。

ところがそうではなかった。まず会場が前と違っていた。会場近くでタクシーを降りると、沢山のランナーがスタート会場に向かって歩いて行く。そして会場の運動場には多くのテントが張られ、大きなゲートや式典用ステージがある。ゲートに何と書いてあるのかと通訳のスンさんに聞くと、小児癌チャリティー・ソウル市民マラソンとのことだった。そして赤い私のナンバーカードにはフルマラソンとはっきり書いてあると言う。そういえば青い家内のナンバーカードには、10kmと書かれているのに気づいた。またよく見ると計測用のチップもカードに着いていた。以前の小児癌チャリティーマラソンが、ソウル市民マラソンとして発展したようであった。

ハーフのつもりで来ているので、今更フルマラソンを走れと言われても困ると言うと、ハーフの折り返しで帰ってこいとの返事だった。それでも問題なくハーフとして計測してくれるという。開会式では日医ジョガーズの石塚先生も登壇され、小児癌の患者代表の子供に寄付金贈呈の役を果たされた。まずフルマラソンの部がスタートし、ハーフの部はその後だった。ハーフの部なのに私のようにフルのナンバーカードを付けたり、10kmのナンバーカードを付けた選手も混じっていた。

レースはスタート会場を出てしばらくの間、小さい川沿いの細い道を進んだ。一部は土や石ころの道でかなり走りにくい。2kmの表示の後、すぐに漢江(ハンガン)と呼ばれる大きな川に出た。ソウル市内中央を流れるこの川は、広い所では川幅が3km、狭い所でも1kmあると後で聞いた。漢江に出てからは快適な自転車・歩行者専用道路を走る。道幅は結構広く、周りの河川敷も公園としてよく整備されていた。2年前の印象とは全く異なっていた。河川敷公園ではいくつかのエベントも開催されていた。5月5日は韓国でも子供の日の休日で、いろいろな催しも多いそうである。距離表示は2km毎で、エイドステーションも十分に設置されていた。途中からはバナナやお菓子も置かれており、配慮が行き届いていた。



対岸にソウル市中心部のビル郡やソウルタワーを眺めながら、ゆっくりとレースを楽しんだ。前回はKDRCのドクターと一緒に話をしながら走ったが、今回は一人旅だった。KDRCのドクターは大会のスタッフとしての仕事があったりして、実際にレースを走ったメンバーは少なかったようである。空は青く晴れ渡り、川沿いの風は爽やかである。所々で大会関係者と思われる人たちが、銅鑼や笛を鳴らして応援してくれた。ただ一般の人の応援は全くない。気持ちよく走っていたら、すぐにゴールに着いてしまった。

その夜は漢江に浮かぶお洒落なレストランで、リー会長から歓待を受けた。私共夫婦と石塚先生が招かれ、リー会長ご夫妻、キム先生、オー先生、通訳のスンさん達と楽しいひと時を過ごした。気心のわかったメンバーばかりで、話が弾んだ。スンさんの巧みな通訳があったので、かなり込み入った話もすることができた。走る哲学者と呼ばれるリー会長は、医師のランニングに対する哲学と、アジア医師ランニング連盟についての熱い思いを語られた。いつしか漢江に映る夕映えが消えて、ソウルの高層ビルやライトアップした橋の美しい夜景に変っていた。話に熱中しているうちに、いつの間にかソウルの夜が深まっていたようであった。



還暦祝いの1級合格証

スキーに行く時には必ず一冊の黒い手帳を、ウエアの上着の内ポケットに忍ばせる。そこには2003年から通い始めた箱館山スキー場でのレッスン記録が、すべて書き込まれている。2004年にまず日本スキー連盟のバッジテスト2級を受け、合格した。これは1級を受験するために必要な資格である。そして続いて1級を受験したら、5科目の内の2科目のみが合格点だった。その後も来年こそ1級合格をという思いで毎年冬に箱館山に通ったが、縁がなかった。2年前にはスキーで右鎖骨を折ってしまった。昨年は雪不足がひどくて、バッジテストができる状態ではなかった。そして還暦を迎えた今年、ようやく1級の検定試験にこぎ着けた。

よくスキーの1級と2級でどこが違うのか問われる。相手はたいがいスキーの経験者である。難しい質問である。これはと思う答えを持ち合わせないので、次の3通りのどれかを相手によって使い分けている。理論派の人には「いつでも正しい位置にスキーが乗れているかどうかが、1級と2級の違いである。」と答える。正しい位置に乗れていれば、スキーはいつでも乗り手が自由にコントロールできる状態にある。感覚派の人には「無理なく優雅に一見楽そうに滑れるのが1級、何となくぎこちなくてどこか無理をしているような滑りが2級」という。具体性を求める人にはこう説明する。ある程度の急斜面を大回り、中回り、小回りできっちり滑り降りることができれば2級、1級の場合は1級の滑りによる回り方が要求される。例えば小回りでは、上から下まで一定のリズムで同じ円弧を描いて、スピードも一定で下りる必要がある。簡単そうに思えるが、実は難しい。自然の斜面の斜度は一定ではなく、急角度になったり緩めになったりする。斜面がより急峻になるとスピードが出過ぎるので抑えなければならないが、ブレーキをかけるとリズムが崩れるので回し込みを深くしてコントロールする。逆に緩斜面ではスキーを前に滑らして加速し、リズムを一定に保つ。

どうしてバッジテストを受けたいと思うようになったのか、よく覚えていない。箱館山に通い始めた頃が、カービングスキーへの移行期だった。カービングスキー技術を教わろうとスキーの個人レッスンを受け始めた。それまでにも他のスキー場でレッスンを受けたことがあったが、何だかしっくり来なかった。でも箱館山スキースクールでレッスンを受けてみると、何となくいい感じだった。大阪からは遠いけれど毎週木曜日に通うことにした。そして幸運にもそこで、インストラクターの澤田信雄先生との出会いがあった。箱館山スキースクールの主任検定員である。澤田先生と出会わなければ、私は1級に合格していないばかりか、スキーに対する熱も今頃は醒めていたかもしれない。

箱館山では当初はいろいろなインストラクターの個人レッスンを受けたが、ある頃からは澤田先生が殆ど私の専属コーチのようになった。後で事情がわかったのであるが、澤田先生は毎週木曜日には私のレッスンを担当すべく、他のインストラクターより早く出勤してくれていた。彼は私より数歳年長で、古い昔のスキー技術が染み付いた私の滑り方を理解し、少しずつ矯正してくれた。どうすれば悪い癖を治せるか、そのための方法をいろいろ工夫し、毎週行く度にそれを試してくれた。彼は大阪の人で、リタイヤしてから箱館山スキー場のすぐ傍に住まいを移されたそうだ。「在日大阪人」と自称される澤田先生は根っからの大阪人で、その点からも私と話がよく合った。先生は元々電気関係の技術者で、電気や水道関係の資格を数多く持っておられる。凝り性で器用なこともあり、自分で家の離れを建てられことも伺った。また自然科学に対する造詣も深く、箱館山付近の気象や動植物についての興味深い話を、レッスンの合間に聞くのも楽しみのひとつであった。

現在私が履いているスキーは4年前に買ったヘッドのデモで、澤田先生もかつて使っておられたスキーである。4年前のシーズン初め、先生は新しいスキー着けておられた。それは誰でもカービングがうまく滑れるというふれこみのスキーで、すぐに私に試し履きさせてくださった。私のレベルではと多少躊躇したが、しばらくお借りして滑ってみた。滑ってみると、その2年前に購入した自分の板と全く感じが違うのである。すぐに同じスキーを探しに行き、見つけると直ちに買った次第である。その後も毎年のように先生はスキー板を買い替えられるが、その度に私に試し履きさせてくださる。いろいろなスキーを試してみて、自然にその違いがわかるようになってきた。

いつもスキーのことを考えておられる澤田先生は、なかなかのアイデアマンでもある。ある時、面白いスキー靴があるからそれを今日は使ってみると言われた。その靴でうまく滑れるようなら、それは滑り方に問題があることを意味するらしい。その靴を履いて自分のスキー板を着けて滑ってみると、何となく押さえにくい感じがあるが別に滑れないわけではなかった。スキースクールのインストラクターは全員、この靴ではまともに滑れなかったそうだ。この靴はレンタル用の靴で、靴の前の部分がフニャと柔らかい。強い力でブーツの前を押すことができないのである。インストラクターはスキー板の中心部(足指付け根辺り)に強い圧をかけて、スキーを大きくしならせてカービングしていることがよくわかった。

今年は大丈夫と澤田先生に言われ、自信をもって受けた3月9日のスキー検定だった。本当は2月24日の検定を受ける予定だったが、当日スキー場に行くと強風のために閉鎖されていた。今年もダメかなと悪い予感がした。仕切り直しの検定試験の日は良く晴れていたが、雪の状態はあまりよくなかった。1級の受験者は25名で、自分以外はみんな若かった。試験では全く自分の滑りができず、これではだめだと思った。結果の発表でも自分のナンバーがなかった。がっくりはしたが反面、あの滑りでは仕方ないという気持ちもあった。ところが翌日に、澤田先生から電話がかかって来た。集計にミスがあり一応合格点に達しているので、合格証を取りに来るようにとのことである。どうもシニアハンディが付いていたのを集計者が見逃したようである。信じられない思いで次の木曜日に箱館山に行き、写真の合格証を戴いた。未だに信じられない思いである。

戴いた合格証はこれまで頑張った努力賞だと受止めると共に、また頑張りなさいというメッセージだと認識した。来年もまた箱館山スキー場に通い、名実とも1級スキーヤーとなるべくトレーニングを積み重ねたいと思っている。